第4話

あの日、扉の向こうの名前が起きた瞬間、私は動けなくなりました

ドアノブは、ひどく冷たかった。
上階テナントの扉には、磨かれた真鍮のプレートがはめ込まれている。会社名は短く、簡素。けれど私にとっては、胸の奥に長い影を落とす名前だった。

――もう使わない、と決めたはずの名前。
若い頃、私はその名の下で働き、そして、黙って去った。

ノックをする前に、扉が内側から開いた。
受付の女性が、私を見るなり一瞬だけ息を詰める。
「……ご予約は?」
声は整っている。でも、目が泳いだ。

「下の猫カフェの者です」
そう告げると、彼女の視線が、私の手元へ落ちた。
指先に握っていた――古い鍵。
私がなぜ持っているのか、説明できない鍵。

「その鍵……」
彼女は言いかけて、口を閉じた。
代わりに、作り笑いで通路を示す。
「どうぞ。少しだけなら」

廊下は静かで、機械の低い唸りだけが聞こえる。
壁に貼られた避難経路図を見て、私は足を止めた。
このビルの“裏”の通路――猫が通れる幅で描かれている。
そんな設計、普通はしない。

「この通路、前からありました?」
問いかけると、女性は一拍遅れて答えた。
「……はい。ずっと」

嘘だ。
私は、ここが改装される前を知っている。

通路の突き当たりに、小さな倉庫があった。
扉には鍵穴。
私は、無意識に古い鍵を差し込んでいた。

――回ってしまった。

中には段ボールが積まれている。猫用品の箱……ではない。
精密機器の空箱。シリアルは剥がされ、宛名は消されている。
床に落ちた、白い毛。
私は指で摘み、鼻に近づけた。

猫の匂いがしない。

ブラシで集めた毛だ。
同じ猫の毛を、同じ場所に撒いている。
誰かが、“猫が出入りした”証拠を作っている。

背後で、衣擦れの音。
振り返ると、ユイが立っていた。
「店長代理、探検ですか?」
その呼び方。第1話と同じ。
私は、静かに答えた。
「違う。私は、昔の忘れ物を取りに来ただけ」

ユイは笑った。
でも、その笑顔は、倉庫の奥――壁の一部に向けられている。
私は気づいた。壁の色が、微妙に違う。
押すと、沈んだ。

隠し扉だ。

中は、さらに細い通路。
床に、あの肉球みたいな滲みが続いている。
そして、首輪。
刻印13の金具が、いくつも。

「猫のせいにするの、うまいでしょ?」
ユイの声が、低くなる。
「記録に残らない一分。運ぶのは軽い。責められるのは、猫」

私は息を整えた。
「あなたたちの目的は何?」
ユイは答えなかった。代わりに、問いを返す。
「本当に、思い出してないんですか。19時28分」

BGMが、どこか遠くで途切れる音。
時計を見る。
19:28。

胸が締めつけられる。
私は知っている。この合図を。
最初に決めたのは、私だった。

隠し通路の奥で、機械が起動する音。
搬入口へ続くドアが、開いた。

次回:倉庫の奥で見つかる“毛の正体”が、犯人を裏切る。

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